先に答え:「男色」と「同性愛」は重なるが、同じではない

歴史語は、誰がどの場で、どんな関係を結んだかを含む社会的な枠組みでもある。

「男色」は、歴史的な日本語のなかで男性同士の性愛や恋愛を指してきた語です。「衆道」「若衆道」は、寺院・武家・都市文化などで、年齢や役割、主従、稽古や奉公と結びついた関係の道筋を表す文脈で使われます。ただし、語の意味と実際の関係は時代・身分・史料によって異なります。

そのため、前近代の男色を現在の「同性愛者」というアイデンティティへそのまま翻訳することも、「日本は昔から寛容だった」と一般化することも危険です。ここでは、文学が作った語り、制度と集団の場、近代に変化したイメージを分けて確認します。

江戸初期のかな草子が「男色の歴史」を組み立てた

過去の男色を語る文章は、過去を発見するだけでなく、過去の系譜を作っていた。

国文学研究資料館のPaul Schalowの研究は、17世紀半ばのかな草子が男色を扱うとき、中国の皇帝、仏教説話、日本の男色文学などを取り込み、男性同士の恋愛を説明する「歴史」を組み立てたことを論じます。その語り方は、後に現れる浮世草子や井原西鶴の作品にも影響しました。

ここで重要なのは、文学が語る由来や伝説を、そのまま社会全体の実態と数えないことです。どの話を選び、誰を理想の人物として描き、どの関係を「道」として意味づけたのかを読むと、男色が実践だけでなく、記憶と正当化の形式でもあったことが見えてきます。

『男色大鑑』:武家の話と歌舞伎界の話を収めた浮世草子

一次資料として価値がある一方、作品の構成と語りの性格を忘れない。

国立国会図書館が公開する『男色大鑑』8巻は、井原西鶴作、貞享4年(1687)刊の浮世草子です。国会図書館の解題によれば、全8巻の前半4巻は主として武家社会の男色咄、後半の5巻以降は歌舞伎界の咄を収めています。角書には「本朝若風俗」とあります。

この構成から、江戸の男色が一つの場所だけにあったとは言えません。同時に、『男色大鑑』は物語作品なので、登場人物や結末をそのまま武家・役者・町人の全員に広げることもできません。一次資料は「当時の人々が何を語り、どんな関係を面白く、忠義深く、悲劇的に描いたか」を知る資料として使います。

  • 書誌 — 貞享4年(1687)刊、8巻の浮世草子
  • 構成 — 前半は武家社会、後半は歌舞伎界の男色咄
  • 限界 — 物語の表象であり、人口全体の行動統計ではない

武家の衆道は、政治秩序と切り離せない

男色を文学や風俗だけでなく、将軍政治と武家社会の再編から読む。

鈴木則子の2024年の研究章は、江戸期の男色を政治との関係から捉え、武家社会と男色、「衆道」の成立、五代将軍綱吉の時代、武家衆道の衰退、幕藩官僚制と親密関係を論点として挙げています。ここから見えてくるのは、男色が寺院・武家・都市の文化として存在したという説明に加えて、武家の親密関係が政治秩序や統治の組み替えと同じ歴史時間に置かれるという視点です。

ただし、研究会が公開する章の案内と出版社の書誌から確認できるのは、この研究が立てる問題設定と時代の区切りです。五代将軍期の個別事例、武家社会の全員に共通する規範、関係者の経験や同意のあり方までを、公開概要だけで再現することはできません。政治の制度、文学の理想、個別の関係を別の資料層として確認します。

  • 制度 — 武家社会・将軍政治・幕藩官僚制の変化を時代ごとに区切る
  • 関係 — 政治秩序の説明を個々の親密関係の実態へ直結させない
  • 資料 — 研究章の問題設定、文学、法令、伝記や記録を同じ証拠にしない

寺院・武家・都市・春画を一つの「文化」にしない

同じ男色という語でも、関係の場と媒体が変われば、意味と力関係は変わる。

Gary P. Leuppの徳川期研究は、男性同士の性愛を、寺院、武家屋敷、歌舞伎と結びついた男娼街、文学、法令、宗教、医学など複数の資料から考えます。これらを一括して「寛容」と呼ぶのではなく、どの制度が関係を組織し、誰が語る権利を持ち、どの立場が弱かったのかを分けて考える必要があります。

春画や浮世絵も同じです。早川聞多の書誌説明は、江戸の男色図について、上方と江戸で異なる認識、衆道の理想と実像、さまざまな状況設定を論点に挙げています。図像は関係の可能性や想像力を示しますが、描かれたことだけで実際の関係の平等さや同意を証明するものではありません。江戸時代の春画とは? では、こうした図像を出版・衣装・笑いの文脈からさらに読みます。

明治の学生男色:過去の継続ではなく、イメージの組み替えとして読む

女学生、恋愛、結婚、家族の登場が、男子学生同士の親密さの語り方を変えた。

前川直哉のJ-STAGE論文は、明治期の男子学生同士の親密さを「学生男色」と区別し、そのイメージが時代を通じて変わった過程を分析します。1900年前後に女学生が増えると、男子学生にとって女性が恋愛や結婚の相手として想像されるようになり、男同士の関係も「男たちの恋」や「男の友情」といった別の言葉へ分かれていきました。

この研究は、明治の学生男色を江戸の武家男色がそのまま残ったものと見る説明を問い直します。男色という語が残ったかどうかだけでなく、学校制度、異性愛的な恋愛・家族の理想、知識人の道徳が、男性同士の親密さをどのように分類し直したかを見る研究です。

現代の「性的指向」へ直線を引かない

「男色」「衆道」を知ることは、現代の同性愛や性的指向の歴史を否定することではありません。むしろ、同じ性別の相手との関係、自己認識、社会的役割、文学上の理想、制度上の扱いが、いつも同じ層として重なっていたわけではないと確認する作業です。

近代の分類語がどのように成立したかは、「同性愛」という言葉の歴史 で扱います。日本語圏で「性的指向」がカテゴリー化されていく過程は、日本で「性的指向」はどう定着したか と接続します。前近代の語と現代の概念を、断絶だけでも連続だけでもない関係として読むための入口です。

男色・衆道の歴史から分かるのは、「寛容」という一語ではない

史料から確認できるのは、男性同士の性愛が、寺院・武家・都市・文学・学校など異なる場で語られ、実践や理想が組織され、近代には別の道徳と恋愛規範のなかで再分類されたことです。そこには文化的な承認も、年齢・身分・主従に基づく非対称性も、同時に含まれます。

だから「日本には昔から同性愛があった」「昔は自由だった」という短い結論ではなく、どの語、どの媒体、どの制度、誰の記録なのかを確認する必要があります。春画の検閲とは? と合わせて読むと、関係を語る表現と、それを分類・排除・展示する制度の両方をたどれます。