先に答え:植民地の公娼制度は「内地の制度のコピー」ではない
共通する制度語と、植民地ごとの実施・市場・民族関係を分ける。
日本帝国の公娼制度を「日本で始まった仕組みが台湾と朝鮮へそのまま移植された」とだけ説明すると、地域ごとの規則、行政、警察、軍事、既存の慣習、市場の差が消えます。科研費研究の概要は、台湾では1896年に制度導入が始まり1906年に全島で統一された一方、朝鮮では1916年に統一されたと整理し、性病検査や遊廓を集める政策のような共通点と、形成過程・内容の違いを同時に示しています。
この記事は、江戸の遊女と遊廓の契約 が近世の奉公証文・名簿・都市配置を読むのに対し、植民地期の法令・官報・警察的分類・移動を扱います。また、日本の売春防止法の歴史 が日本内地の戦後法制と婦人保護事業を扱うのに対し、ここでは台湾・朝鮮の植民地統治期を主対象にします。
なお、本文で使う「公娼」「娼妓」「私娼」「遊廓」などは、当時の法令や研究が用いる歴史語です。現在の人の属性や職業を一括して呼ぶラベルにはしません。現行法、性風俗営業、性被害への支援、個別の補償請求や法律相談も扱いません。
台湾:1896年の地域命令から1906年の全島的な制度へ
導入日は一つでも、実際には県・庁ごとの行政命令が制度を形にした。
張暁旻の研究は、台湾総督府の統治が始まった直後の1896年、台北県を事例に公娼制が導入される過程を検討しています。国立国会図書館の書誌が示すように、研究の対象は「貸座敷・娼妓取締規則」だけでなく、台北県で制度が行政命令として組み立てられた具体的な導入過程です。
別の研究では、1896年から1906年にかけての台湾を、貸座敷と娼妓の登録許可、性病検査、営業区域の指定、私娼への取締りという複数の規則群から読みます。1896年7月の台中、同年10月の澎湖、1897年5月の台南など、地域ごとに命令が積み重なり、1906年までに全島で制度が統一されました。
ここでいう統一は、台湾社会の性売買が一つの均質な制度になったという意味ではありません。何を貸座敷・娼妓として登録するか、どこを営業区域とするか、登録外の女性をどのように扱うかという行政上の分類が、植民地統治の枠内で整えられたという意味です。
朝鮮:1916年の規則と、軍事・警察による営業区域の管理
朝鮮の制度化は、居留地・占領地の段階を経て統一規則へ組み替えられた。
朝鮮半島にも性売買や接客の慣行はありましたが、研究上は、日本の占領以前から日本内地と同じ国家登録型の公娼制度があったと扱いません。小野沢あかねの書評が紹介する研究整理では、居留地遊廓、占領地遊廓、1916年以後の植民地遊廓という時期区分を置き、制度が軍事的支配とともに変化した過程を追います。
1916年3月31日に朝鮮総督府の警務総監部令第4号として「貸座敷娼妓取締規則」が公布され、同年5月1日に施行されました。小野沢の書評は、1916年の統一規則のもとで貸座敷が再編され、憲兵警察制度が許認可と性病検査に大きく関わったと説明しています。
韓国史データベースの朝鮮総督府官報には、1917年9月1日付で「貸座敷娼妓取締規則第3条」に基づき、咸鏡南道で貸座敷営業区域を指定した告示が残ります。制度は抽象的な法律名だけでなく、どの地域を営業可能とするかという行政実務としても働いていました。
同じ制度名でも、台湾と朝鮮の市場は同じにならなかった
比較の単位を「制度の有無」から、制度が作った市場と移動へ広げる。
陳姃湲の研究は、1920年代以降、台湾の遊廓に朝鮮楼が現れた経緯を追い、朝鮮と台湾が日本国家の管理する公娼制度を採用していても、性売買市場は異なる形になったと論じます。その差は、朝鮮から台湾へ周旋業者や働く女性が一方向に移動する経路として現れました。
同研究は、台湾の新聞、統計書、人名録、裁判記録、商業地図、戸口調査簿などを用い、制度が「同じ」と書かれた後に、地域社会・民族関係・業者・市場がどう組み合わされたかを検討します。つまり、植民地史は本国法令の延長としてだけでなく、制度が異なる社会へ入ったときに生じる摩擦と再編の歴史でもあります。
科研費研究の概要も、朝鮮人娼妓が1920年代初めから台湾へ移動し、1930年には台湾人娼妓を上回ったという研究上の集計を紹介しています。ただし、これは研究対象となった「licensed prostitutes」の範囲と統計定義に依存する数値であり、台湾・朝鮮の女性全体や、登録外の性売買を表す人口統計として扱いません。
性病検査と民族分類:保健ではなく統治の技術として
検査の存在を、働く人の健康が守られた証拠へ短絡しない。
中央研究院・台湾史研究所に掲載された張暁旻の研究概要は、台湾で1896年から性病防治政策と買売春管理が同時に始まり、植民地当局が公娼と私娼の身体を監視したと整理します。しかし、私娼への強制検査は一年足らずで中止され、日治前半の約25年間は公娼が性病防治の主な対象になりました。
この研究が示す重要な点は、公娼/私娼の区別が単なる営業形態の違いではなく、民族差別を含む植民地医療の編成と結びついていたことです。日本人を中心とする公娼の身体を管理して在台日本人社会を守る一方、台湾人女性を多く含む私娼には刑事取締りを向けるという非対称な構造がありました。
したがって、性病検査を「衛生的な保護」とだけ呼ぶことはできません。誰が検査され、誰が登録され、誰の感染リスクを減らすことが行政の優先目標だったのかを確認すると、医学的な語彙が植民地の人種・民族秩序と結びついていたことが見えてきます。
遊廓と軍用慰安所:接点はあるが、同じ制度ではない
植民地公娼制度を軍事史と切り離さず、しかし同義語にも置き換えない。
朝鮮の植民地遊廓について、小野沢の書評は、都市の形成、朝鮮駐箚軍、憲兵警察、居留民社会の要望、教育費などの地域経済が重なったことを紹介しています。遊廓は軍隊だけで成立するものではなく、営業者、周旋者、土地所有、商業、居留民政治が支える社会的な装置でもありました。
一方、植民地公娼制度、植民地遊廓、軍用慰安所は、法令上の対象、軍との関係、徴集・移送の仕組み、当事者の経験、戦時下の運用をそれぞれ検討すべき語です。公娼制度が先に存在したことから、すべての遊廓が軍用慰安所だった、またはすべての女性が同じ経験をした、とは言えません。
藤永の研究概要は、台湾・朝鮮の公娼制度と、1920年代以降の朝鮮人娼妓の台湾への移動を、戦時期の軍用慰安所への移送を考える研究課題とも接続しています。この記事では、その接続を研究史上の論点として示すにとどめ、軍用慰安所の全体史や個別の被害認定を、このページの制度比較だけで結論づけません。
植民地公娼制度を読む四つの層
法令の条文から、移動した人びとの経験までを一つの資料で埋めない。
台湾と朝鮮を比較するとき、制度の導入年だけを並べても植民地支配の具体性は見えません。行政命令と官報は統治者が設定した境界を示し、研究論文は市場・民族・軍事・地域社会の関係を再構成します。新聞、名簿、裁判記録、地図、戸口調査簿などは、移動や分類を追う手がかりになりますが、それぞれが残す視点も異なります。
歴史語は中立ではありません。「公娼」「私娼」「娼妓」「朝鮮楼」「貸座敷」は、制度が人を分類した語であり、当事者の自己記述をそのまま表すとは限りません。研究者がその語を使う場合も、何を指すカテゴリーなのか、どの資料から数えたのかを確認します。
- 法令・規則 — 登録、営業区域、検査、禁止を誰が定めたか
- 警察・軍事 — 憲兵警察、駐屯地、居留民社会、地域行政がどう接続したか
- 市場・移動 — 業者、土地、顧客、民族分類、人の移動がどの差を生んだか
- 経験・記憶 — 女性の声、抵抗、被害、戦後の記憶がどこに残り、どこで欠けるか
植民地公娼制度の歴史は、制度の移植ではなく再編の歴史である
日本帝国の公娼制度には、許可営業、指定区域、性病検査、遊廓の集約という共通する制度語がありました。しかし台湾では1896年から1906年に地域命令を積み重ね、朝鮮では1916年の統一規則と軍事・警察の管理を組み合わせ、さらに両地域の市場は異なる形で展開しました。制度は同じ名前で移動しても、植民地社会の中では同じ結果になりません。
この視点に立つと、植民地公娼制度を「近代化」「衛生」「日本文化の移植」の一語で説明できなくなります。国家が許可したこと、警察が管理したこと、軍事都市や居留民社会が需要を作ったこと、民族ごとに身体と業種を分類したこと、そこで働いた人が移動・抵抗・沈黙したことを、資料の層ごとに分けて読む必要があります。
植民地期と戦後の法制は連続しながらも、地域ごとに別の政治史を持ちます。日本の売春防止法の歴史 では日本内地の1946年以後を、参考文献・出典台帳 では今回の台湾・朝鮮の法令・官報・研究資料を、用途と限界つきで確認できます。
