先に答え:中絶法制は、犯罪化・例外・優生政策を重ねて作られた

「合法化」という一語では、誰の身体が保護され、誰の生殖が制限されたのかを説明できない。

「中絶の歴史」「堕胎罪」「優生保護法」は近い検索語ですが、同じ制度を指しません。堕胎罪は刑法上の犯罪類型、人工妊娠中絶は優生保護法や母体保護法が使う行政・医療上の用語、優生手術は生殖を不能にする手術の規定です。

本稿では、1907年の刑法、1948年の優生保護法、1949年・1952年の改正、1970年代以降の「産む自由」をめぐる議論、1996年の母体保護法化、2024年の最高裁判決を分けます。現在の中絶方法、医療機関、費用、妊娠週数、個別の法的判断を案内する記事ではありません。

「中絶」「堕胎」「優生手術」は、同じ行為ではない

法令の用語をそのまま現在の経験へ戻さず、誰が何を分類した言葉かを確認する。

刑法の「堕胎」は、刑罰法規が妊娠の中断を犯罪類型として記述する言葉です。これに対して、1948年の優生保護法は「人工妊娠中絶」を定義し、同じ法律の中で「優生手術」を生殖不能の手術として定義しました。行為の医学的説明、刑法上の犯罪、行政上の審査・指定は、同じ文章の中でも別の層です。

この区別をしないと、優生保護法が中絶を認めたことだけを「女性の権利の拡大」と読むか、逆に中絶を人口政策の一部だけと読むかの二択になります。実際には、母体保護、人口問題、優生思想、医師の指定、本人の同意、障害者差別が同じ法律の改正過程で接続していました。

既存の日本の避妊・産児制限の歴史は、避妊方法、相談所、家族計画、人口政策、IUDとピルの承認経路を中心に扱います。本稿は、そこで接続する優生保護法を、堕胎罪・優生手術・法改正・裁判という法制史の問いへ切り出します。

明治刑法の堕胎罪:妊娠の中断を刑法に置く

犯罪化の出発点を「昔は中絶が禁止された」とだけ言わず、条文の配置と沿革から読む。

国立国会図書館の日本法令索引は、刑法を明治40年4月24日法律第45号として記録し、第一次改正から戦時期、1947年以後の改正までの沿革を示しています。堕胎に関する規定は、この刑法の第29章「堕胎の罪」に置かれました。

刑法第212条から第216条は、自己堕胎、同意を得た堕胎、業務上の堕胎、本人の同意によらない堕胎とその致死傷を分ける構造でした。ここで重要なのは、妊娠をめぐる決定を刑法の対象にしながら、誰が行為者で、誰が同意し、誰が被害を受けたと分類されるかを条文が組み立てた点です。

後の優生保護法は堕胎罪を消滅させず、刑法上の犯罪を原則に置いたまま、別の法律で一定の人工妊娠中絶を許容する仕組みを作りました。したがって1948年を「堕胎罪の廃止」と呼ぶと、刑法と特別法の二重構造を取り落とします。

1948年の優生保護法:母体保護と優生思想を同じ法に置く

中絶の合法化と、優生手術による生殖の制限は、同じ法律の別の目的として併存した。

衆議院が公開する1948年の法令本文は、優生保護法の目的を、優生上の見地から出生を防止することと、母性の生命健康を保護することの両方としていました。また、優生手術と人工妊娠中絶を別々に定義しています。

この構造は、妊娠を継続しない選択を可能にする規定と、特定の疾病・障害などを理由に生殖を不能にする規定を、同じ法制度の中で扱うものでした。中絶を認めた条文があることだけでは、本人の自己決定が制度全体の中心だったとは言えません。

松原洋子は、優生保護法について、中絶の合法化と優生政策が共存した歴史像を再検討しています。法律を「解放」か「抑圧」かの一語へ固定せず、刑法の例外、人口問題、医療専門職、優生思想がどう接続したかをたどる必要があります。

1949年・1952年の改正:経済的理由と手続の簡素化

人工妊娠中絶をめぐる制度は、条文の追加と行政手続の変更によって広がった。

1949年の改正法は、妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれがある場合を、人工妊娠中絶の審査対象に加えました。これにより、優生学的な理由だけでなく、生活と母体保護をめぐる理由が法文へ入りました。

厚生省の1952年施行通知は、優生手術の対象を広げる改正とともに、人工妊娠中絶の手続を簡素化し、経済的理由や強姦等による事実認定を指定医師に委ねる変更を説明しています。これは「法が一度に自由化された」という出来事ではなく、審査・同意・医師指定の運用を組み替えた過程です。

この時期の制度は、本人の経験を直接記録するより、医師の申請、意見書、指定、審査という行政書類へ翻訳しました。統計や法令の件数から、すべての妊娠した人の選択や同意を推測することはできません。

「女性の解放」だけでも「国家管理」だけでもない

同じ制度が、妊娠を望まない人への選択肢と、出生を管理する政策の両方になり得た。

既存の避妊史が示すように、戦後の生殖政策は、過剰人口、家族計画、受胎調節、国際的な人口政策と結びつきました。しかし、人工妊娠中絶を認める法制度を、利用者の自由の実現だけとして語ると、優生手術や障害者への生殖制限が同じ法律にあったことが見えなくなります。

一方で、優生保護法を国家の人口政策だけに還元することもできません。経済的な困難、妊娠・出産による母体への負担、望まない妊娠、医療者の判断など、制度を利用した人びとの状況は一つではありません。資料が行政・医療の側から残りやすいこと自体が、歴史上の非対称です。

松原の科学史研究と、法令・行政通知を並べると、制度の理念、条文、運用、当事者の経験を別々の資料層として扱えます。研究資料は社会全体の意識を一つに決めるためではなく、制度がどの価値を優先したかを問い直すために使います。

1970年代の「産む自由」:中絶をめぐる対立も歴史になる

法改正をめぐる運動は、賛成/反対の二色ではなく、出産・養子・プライバシー・胎児の位置づけを争った。

吉田一史美の研究は、1973年の菊田医師事件と、その後の優生保護法改正問題を「産む自由」をめぐる運動として検討しています。ここで問われたのは、中絶の制限だけではありません。望まない妊娠、出生後の養子、出生記録のプライバシー、妊娠後期の扱いが一つの議論に重なりました。

この史料から読み取れるのは、1970〜80年代に特定の運動や医師がどのような主張をしたかであって、当時の女性全体や障害者全体の意見ではありません。運動の言葉を社会全体の合意へ拡張せず、誰が発言し、誰が発言しにくかったかを残す必要があります。

中絶をめぐる議論は、女性の自己決定、母性保護、胎児の生命、障害者差別、家族の責任を同じ「命」の語で覆い隠しやすい領域です。歴史記事では、各主張がどの制度変更を求めたのかを分けて記録します。

1996年の母体保護法化:優生規定の削除と、残った制度

名称と目的が変わっても、旧法の下で生じた被害と、刑法との関係が自動的に消えるわけではない。

厚生省の1996年通知は、優生思想にもとづく規定が障害者への差別となることを踏まえ、規定を削除し、法律名を優生保護法から母体保護法へ改めたと説明しています。目的も「不良な子孫」の出生防止ではなく、不妊手術と人工妊娠中絶に関する事項を定めることなどによる母性の生命健康の保護へ改められました。

しかし、この改正は1996年までに行われた優生手術や、本人の意思を奪った制度運用を取り消すものではありません。また、中絶をめぐる刑法と特別法の関係がすべて消えたという意味でもありません。法の名称変更、条文削除、過去の被害、現在の制度を、別の時点として記録する必要があります。

この段階を「優生学は終わった」とだけ結論づけると、法改正の前後で何が削除され、何が残り、誰の回復が遅れたのかという問いを失います。被害の検証と補償の現在的な制度は、歴史的経緯を確認したうえで別に調査すべき領域です。

2024年最高裁判決:旧法は過去形になっただけではない

旧優生保護法をめぐる国家賠償請求は、法改正後も残る責任と被害の時間を可視化した。

最高裁判所大法廷は2024年7月3日、旧優生保護法の優生手術などに関する規定と、憲法13条・14条1項との関係が争われた国家賠償請求事件を判決しました。判決文は、1948年から1996年までの規定と、1996年改正後の法律名を区別して事件を整理しています。

この判決を記事へ置く理由は、現在の訴訟結果を案内するためではありません。優生保護法が廃止・改正された時点で歴史が閉じたのではなく、被害を受けた人びとが後年に法の違憲性、国の責任、時効・除斥期間などを問い直したことを示すためです。

法令の制定・改正史と、被害を受けた人びとの回復の歴史は同じ速度では進みません。最高裁判決は、旧法を「昔の制度」と安全に隔離するのではなく、制度が残した不利益を誰がどのように語り直せるのかという現在への接続点として読む資料です。

中絶・優生保護法史を、五つの資料層で読む

法令、行政通知、研究、運動史、裁判を並べると、制度の目的と当事者の経験を混同しにくい。

第一に刑法と法令索引から、堕胎がどの犯罪類型に置かれ、どの改正を経たかを確認します。第二に優生保護法の本文から、母体保護、人工妊娠中絶、優生手術が同じ法にどう配置されたかを見ます。第三に行政通知から、審査、同意、指定医師、手続の運用がどう説明されたかを追います。

第四に科学史・社会史・運動史の研究から、条文に現れない人口政策、障害者差別、医療者、女性運動、養子と出生記録の議論を補います。第五に裁判資料から、法改正後も残った被害と責任の時間を確認します。どの資料にも見える経験と見えない経験があるため、資料を足せば当事者全体が自動的に代表されるわけではありません。

  • 刑法・法令索引 — 堕胎が犯罪としてどう構成されたか
  • 法令本文 — 中絶と優生手術を同じ制度へどう置いたか
  • 行政通知 — 審査・同意・医師指定がどう運用されたか
  • 研究・運動史 — 人口政策、差別、母性、自己決定をどう論じたか
  • 裁判 — 改正後に被害と責任がどう問われたか

「合法化」ではなく、誰の生殖をどう扱ったかを追う

日本の中絶法制史を理解する鍵は、明治刑法の堕胎罪、1948年の優生保護法、1949年の経済的理由、1952年の手続変更、優生手術の拡大、1996年の優生規定削除、2024年の最高裁判決を一つの進歩史へ圧縮しないことです。

日本の避妊・産児制限の歴史が相談所・家族計画・人口政策・承認経路を扱うのに対し、本稿は刑法の犯罪化、優生手術、特別法の例外、法改正と被害の後史へ焦点を移しました。婚外子・「嫡出でない子」の歴史と並べれば、生まれた後の子の分類と、生まれる前の生殖を法がどう扱ったかを別の制度層から比較できます。

法令、厚生行政、研究論文、運動史、裁判の役割と限界は、参考文献・出典台帳に残しています。現在の医療・法的判断へ短絡せず、制度が誰を保護し、誰の身体を管理し、どの被害を後世へ残したのかを問い直すことが、このページの結論です。